観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1350年-1352年の観応年間に頂点に達した足利幕府(室町幕府)の内訌。この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。
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足利直義派と高師直派
初期の足利幕府においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。
訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かったが、鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向していたので、自然、公家・寺社や有力御家人の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。一方、武士を統率し南朝方との戦いを遂行する師直は、従来の荘園公領制の秩序を破っても権益を獲得しようとする武士たちを擁護することで軍事力を組織していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立することになる。
南北朝時代の初期に楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将があいついで敗死し、高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、1339年に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直の勢力は後退し、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。
しかし、1347年(正平2年/貞和3年)に入ると、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起する。直義派の細川顕氏・畠山国清が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、さらに山名時氏が増援されたが京都に敗走した。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌1348年(正平3年/貞和4年)の四條畷の戦いで南軍を撃破し、さらに勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生(奈良県五條市)へ落ち延びた。この結果、幕府内で直義の発言力の低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。
直義の排除
1349年6月、上杉重能や畠山直宗、禅僧の妙吉らの進言により、直義が将軍尊氏に要求した結果、師直は執事を罷免される(後任は甥の高師世)。『太平記』によれば直義派による師直暗殺騒動も存在したとされる。さらに直義は、北朝の光厳上皇に追討の院宣を要請して師直を討とうとしている。
8月12日、師直は河内から軍勢を率いて上洛した師泰とともに直義を討とうとする。13日、直義は尊氏の邸に逃げ込むが、師直の軍勢が尊氏邸を包囲し、上杉重能・畠山直宗の身柄引き渡しを要求する。禅僧夢窓疎石の仲介もあり、重能・直宗の配流、直義が出家し幕政から退くことを条件に、師直は包囲を解いた。直義に代わり鎌倉にいた尊氏の嫡子義詮が上洛して政務統括者となる。この事件は、直義派の排除のため尊氏・師直が示し合わせていたとする説もある。
11月に義詮が入京し、12月に直義は出家して恵源と号する。しかし、この月に上杉重能と畠山直宗が配流先で師直の配下に暗殺されたことから、両者の緊張は再び高まった。
擾乱の勃発
この年の4月に長門探題に任命されて備後国に滞在していた直義の養子直冬は、事件を知って直義に味方するために上洛しようとしたが、幕府が討伐軍を送ったため九州に敗走した。しかし、直冬は少弐氏らに迎えられ九州・中国地方に勢力を拡大していく。
翌1350年、北朝は「貞和」から「観応」に改元。10月、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣するが、その直前に直義が京都を出奔していた。直義は畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付け、関東では12月に上杉憲顕が高一族の高師冬を駆逐する。尊氏は備後から軍を返し、高兄弟も加わる。観応の擾乱のはじまりはこの時点に求められる。11月には直義は高兄弟の追討のために諸国の兵を募る。光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は南朝に降る。
1351年(正平6年/観応2年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いで直義軍に敗れる。尊氏は師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦する。高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(師直に殺害された重能の養子)の軍勢により、摂津の武庫川(兵庫県伊丹市)で一族とともに謀殺される。直義は義詮の補佐として政務に復帰する。
尊氏と直義の対立
いったんは平穏が戻ったものの幕府内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。近江の佐々木道誉や播磨の赤松則祐らが南朝と通じて幕府に反すると、尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵する。だが、尊氏・義詮と道誉らには密約があり出兵の真の狙いは京都の挟撃といわれており、8月、直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ至った。
直義派が関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸張している状況を見て、尊氏は南朝と交渉し、和議の提案と直義・足利直冬追討の綸旨を要請する。南朝は、北朝が保持していた三種の神器(南朝は贋物であると主張)を渡し、政権を返上することなどを条件に和睦に応じ、10月には尊氏は南朝に降伏して綸旨を得る。
尊氏は義詮を京に残して南朝との交渉を任せて直義追討のために出陣し、翌1352年(正平7年/観応3年)には直義を駿河国薩埵山(埵は漢字では土へんに「垂」、静岡県静岡市)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで破って鎌倉に追い込み降伏させる。鎌倉に幽閉された直義は2月に急死する。『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。
正平一統
一方、尊氏の南朝への降伏により北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ。南朝の勅使が入京して具体的な和睦案が協議された。南朝側は、北朝の意向により天台座主や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。正平一統が成立し、南朝の後村上天皇が帰京する噂が立つと、各地で南朝方の活動が活発化し、本拠を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)まで移転する。
南朝方は、北畠親房の指揮の下、東西で呼応して京と鎌倉の同時奪還を企て、1352年2月には尊氏の征夷大将軍を解任。代わってこれに就任した宗良親王を奉じた新田義興、新田義宗らが鎌倉を奪還し、直義を破ったばかりの尊氏は武蔵へ逃れる。南朝主力の楠木正儀や北畠顕信、千種顕経、直義派であった山名時氏などが京都を攻略し、義詮は近江へ逃れ、正平一統は破れる。このとき北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王が京都に取り残され、南朝方に捕われて賀名生へ連行された。
南朝方が京と鎌倉を同時占拠すると、後村上天皇は賀名生から山城国男山(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ至る。近江へ逃れた義詮は正平一統を破棄、正平7年の年号を観応3年に戻し、協議された統一案も破棄されるが、一部は影響した。義詮は諸守護を動員し、美濃の土岐氏、四国の細川氏、播磨の赤松氏、近江の佐々木氏らの勢力を集め、直義派であった山名氏や斯波氏らの協力も得て、3月に京都を奪還、尊氏も新田勢を追い鎌倉を奪還している。
5月に後村上天皇は山城八幡から賀名生に逃れる。この際、四条隆資が戦死している。
南朝の延命
この乱により、足利尊氏・直義に分割されていた将軍の権力は尊氏のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化されるが、高師直によって吉野を陥落させられ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝に、直義・尊氏が交互に降るなど息を吹き返し延命したため、南北朝の動乱が長引いた。
尊氏が南朝に降ったときに南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性が弱められる結果となった。治天の君であった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王が南朝に連れ去られ、南朝の後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。また、幕府にとっても、尊氏が征夷大将軍を解任されたため、幕府自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・幕府・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになった。ここに幕府・北朝側は深刻な政治的危機に直面することになった。
事態を憂慮した二条良基は勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の実母広義門院に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。広義門院が伝国詔宣を行うことによって崇光弟の後光厳天皇即位が実現することとなった。良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはされておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。
北朝内の皇統対立
後光厳、後円融、後小松、称光と4代にわたって後光厳系が皇位についた一方、兄筋の崇光上皇の子孫は嫡流から排されて世襲親王家である伏見宮家として存続し、北朝内部でも皇位継承をめぐる両系統間の確執があったとされている。結局、後光厳の系統は称光の代で途絶え、次の後花園天皇(崇光の曾孫)以降、皇位は崇光系が受け継ぐこととなった。