2009年06月30日

周恩来は毛沢東に従い続け

文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。有力幹部の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。文革の勃発時に共産党政治局常務委員(党の最高首脳)だった者の中で、最後まで一度も失脚しなかったのは毛沢東を除けば周恩来と陳雲、朱徳だけであった。但し、後の二人は実際は何の実権も無い名誉職であった。周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日紅衛兵を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵のスパイ」と決め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。
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その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。

2009年06月12日

ロストジェネレーションの人々は、第一次世界大戦に

ロストジェネレーションの人々は、第一次世界大戦における大量の犠牲により、親世代が持つヴィクトリア期のモラルに対して冷笑的になったとされる。また、第一次大戦に遭遇したが故に、社会と既成の価値観に絶望し、その中で生きる羅針盤を失い、社会の中で迷った世代である。どの世代の例に漏れず、この例に該当する者と該当しない者の双方が存在した。
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

ロストジェネレーションは、20代の青年期を第一次世界大戦に蹂躙され、戦争によって死んだり、生き残ったが社会生活に支障を来たす負傷をした者も多い。40代に当たる1930年代には世界恐慌に遭遇し、50代を第二次世界大戦に蹂躙されるという、「貧乏くじ世代」であったとも言えよう。

ロストジェネレーションの子供世代はビート・ジェネレーションと呼ばれており、純粋なアメリカ文化と言われるジャズが花開いた時代(ジャズ・エイジ)に9歳までの時期を過ごしたが、10代の少年期を世界恐慌に蹂躙され、20代の青年期を第二次世界大戦に蹂躙された「貧乏くじ世代」でもある。

ロストジェネレーションの人々の中には、当時のアメリカ文化がヨーロッパに存在する文明性を欠いていると考えた者もいた。彼らは「ローリング・トゥエンティーズ」と呼ばれる好景気に沸いていたアメリカを後にして、その時間の多くをヨーロッパ、中でもパリを中心に生活していた。この期間に生み出された文学作品の中に、後にアメリカ文学における傑作と目される作品も多い。

2009年06月08日

道徳的規範にはどの文化にも共通の部分と

道徳的規範にはどの文化にも共通の部分と、習慣や慣習的規範のように文化によって大きく異なる部分がある。通常、共同体の構成員に対する危害:殺人、盗み、騙し、強姦などはどの文化でも不道徳視されている。一方で、例えばインドのバラモンの間では、息子が叔父の死後10日以内に肉を食べるか髪を切ることは不道徳とみなされるが。これは他の国ではそうではない。アメリカでは子供と同じベッドで寝ることは幼児虐待と見なされることがあるが、アジア諸国ではそうではない。道徳判断に用いられる特性(権利、義務、世話、神聖さなど)の強さも社会によって異なる。
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多くの文化では道徳的規範と慣習的規範が意識して区別されることが少ないが、幼い子供でも道徳的規範と慣習的規範の区別が付くようである[3]。例えば盗むことは悪いことだと教えられると、子供は「常に盗むことは悪いことだ」と理解するが、静かにしていなさいと注意されると、注意されたとき、あるいは特定の状況でのみ「静かにしているべきだ」と判断する。また宗教的に育てられた子供でも宗教的規範(他の教徒は従わなくても良い)と道徳的規範(全ての人が従うべきだ)をあるていど区別するようである。

心理学者エリオット・テュリエルのような道徳普遍主義者は、多様性を表面上の物と考え、より深層の共通性を捜した。人類学者リチャード・シュウェーダーはこの一見すると多様に見える道徳性を三つの領域に分けた。自立性(自由、権利、危害、正義に関する)、集団性(義務や集団全体に関わる)、神聖さ(純粋さや高潔さ、個人の霊性に関わる)[4]。ジョナサン・ハイトはそれを元に基本的な道徳の根源を5つに分け、ブラジルと北アメリカの上流社会と下流社会の人々の間で、無害だが不愉快な行為を評価する際に、この特性が異なる用いられ方をしていることを発見した[5]。

親切さ:他人に親切にすること、害を加えないこと
公正さ:公正さを保ち、不公平な扱いを気に掛け罰する
集団性:家族、集団への忠誠
権威:伝統や権威への服従
純粋さ:純粋さや清潔さを好み、汚れた物や不純な物を嫌う

2009年04月24日

大和雪原

大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)は南極探検家・白瀬矗が命名した南極の地域名。ただし、国際的に広く用いられているものではない。

白瀬は1912年1月にクジラ湾にて南極に上陸した。南極点を目指す予定であったが、それは果たせず1月28日に到達した南緯80度05分西経156度37分が最も南の地点であった。白瀬はここに日章旗を掲揚し、日本と周囲の情景を組み合わせて、その地域を「大和雪原」と命名した。同時に白瀬が日本領とすることを宣言している。

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その後、直ちに日本の後続の探検隊が送られることもなかったために、大和雪原の範囲は明確化されていない。日本領の宣言については、第二次世界大戦後のサンフランシスコ平和条約第2条において、日本国政府は南極地域の領有権を放棄しており、無効となっている。

なお、現在では大和雪原は、陸上ではなく、ルーズベルト島南方のロス棚氷上にあることが判明している。

2009年04月07日

韓国の演歌(トロット)

韓国にも日本の演歌の影響を強く受けたトロットと呼ばれる(昭和に入って民衆歌謡に変節して以降の)大衆歌謡分野が存在する。戦後朴正煕政権時代までは、トロットを指す言葉として「演歌」の韓国語読みである「ヨンガ」が用いられることも少なくなかったが、後の倭色追放運動によって日本語由来である演歌(ヨンガ)という呼称は使えなくなり、もっぱらトロットと呼ばれるようになった。

演歌の曲想 [編集]
演歌のテーマは、別れや失恋など、悲しさや遣瀬なさといったものが多いため、ほとんどが短調である。長調でかかれているものは、ヨナ抜き音階のものが多い。

ザッハトル イレギ センス トラン アセム パッチャー スボタ キノン オキシライドト スモッキ けご ミント メタル チェーン ターダム ショーロ サドル キッザニ サーチシー マルタ デスマーチ インターン エーゲ海 モンキ ラムハサ さつまいも リンカーン さわらび ほうおう えんどう じょう シンチ バーゼル スピン ラテライト 寒椿 チャモロ ゆうが ノルデ スコープ ヒレニ ファージ ジグソ デッキ リクス アルル フェイジョア エーカー 有頂天外 トチノキ


オリコンチャート主な1位獲得作品 [編集]
太字の曲はミリオンセラーとなったもの。なお、ただし下記の曲の中にも、歌謡曲やJ-POPのジャンルに入るものもあることに注意。

週間 [編集]
星影のワルツ/千昌夫(1968年6月3日付?7月1日付、8月17日付の6週)
港町ブルース/森進一(1969年6月9日付?7月7日付の5週)
池袋の夜/青江三奈(1969年9月8日付?10月13日付の6週)
女のブルース/藤圭子(1970年3月30日付?5月18日付の8週)
圭子の夢は夜ひらく/藤圭子(1970年5月25日付?7月27日付の10週)
京都の恋/渚ゆう子(1970年11月9日付?12月28日付の8週)
望郷/森進一(1971年1月25日付?2月8日付の3週)
よこはま・たそがれ/五木ひろし(1971年7月19日付の1週)
わたしの城下町/小柳ルミ子(1971年7月26日付?10月11日付の12週)
瀬戸の花嫁/小柳ルミ子(1972年5月15日付?6月5日付の4週)
京のにわか雨/小柳ルミ子(1972年9月11日付?9月25日付、10月9日付?10月16日付の5週)
女のみち/宮史郎とぴんからトリオ(1972年10月30日付?1973年2月12日付の16週)
なみだの操/殿さまキングス(1974年3月18日付?5月13日付の9週)
夫婦鏡/殿さまキングス(1974年7月15日付?8月5日付の4週)
冬の駅/小柳ルミ子(1974年11月18日付、12月9日付の2週)
あなたにあげる/西川峰子(1974年12月16日付の1週)
昭和枯れすゝき/さくらと一郎(1975年4月28日付?5月12日付の3週)
心のこり/細川たかし(1975年7月28日付?8月18日付の4週)
北の宿から/都はるみ(1976年12月6日、12月20日付?1977年1月10日付の4週)
おもいで酒/小林幸子(1979年7月23日付の1週)
矢切の渡し/細川たかし(1983年4月18日付?5月2日付の3週)
あじさい橋/城之内早苗(1986年6月23日付の1週、史上初の演歌初登場1位曲)
雪國/吉幾三(1987年2月9日付の1週)
北の旅人/石原裕次郎(1987年8月24日付の1週)
浪花いろは節/関ジャニ∞(2004年10月4日付の1週、平成初の演歌1位曲)
初恋列車/氷川きよし(2005年2月21日付の1週、平成初の演歌初登場1位曲)
(1968年1月4日付?2006年12月25日付まで、計26曲)

年間 [編集]
1968年度 星影のワルツ/千昌夫
1971年度 わたしの城下町/小柳ルミ子
1972・73年度 女のみち/宮史郎とぴんからトリオ
1974年度 なみだの操/殿さまキングス
1975年度 昭和枯れすゝき/さくらと一郎
1979年度 夢追い酒/渥美二郎(最高2位)
1983年度 さざんかの宿/大川栄策(最高2位)
1987年度 命くれない/瀬川瑛子(最高2位)
(1968年度?2006年度まで、計8曲)

2009年03月23日

名鉄5700系電車

5700系電車(5700けいでんしゃ)は、名古屋鉄道の一般形電車。
ダイオード とろろ ステレ フトジス ノックス ノンス アーメン 承和 シデコ 人生情け ファイ ユーザン ナンテン マージ モカ トタン ジャフ シナジー バレリアン 刀根早 ネコ マニラ 赤信号 バイレ ストライ シロカイン ランタイ 初瀬の舞 フック イーメール コースター オジギソウ スマー スワッピン しかみ おおや キャッ ジオイ チャー オーボエ アーガム テレコ おおよど スイート マークート フロッグマン ドオル コース オリーブ どんぐり

なお、本項では同様の車体と設備を持ち、ほぼ同時期の製造で車両性能が近い機器流用車の5300系電車についても記述する。
両開き片側2扉車体で、車内の座席は車端部にロングシート、先頭車の乗務員室背後と各車の扉間には転換クロスシートを計16脚配置する。先頭部分は「く」の字型で、通常の乗務員スペースを確保しながら、客室から前方への眺望を提供するために車掌台側の窓が拡大されたスタイルである。5700系は完全な新造車、5300系は一部部品に1955年 - 1957年製車両からの機器を再用した車両である。

公式な愛称はついていない[1]が、ファンの間では以前から「新SR(スーパーロマンス)車」、「NSR」、「ニュースーパー」などと呼ばれている。なお、5700系の登場時に駅構内に掲示されていた新車デビューの広告には「スーパーロマンスカー」と表記されていた。

車体(5700系・5300系共通)
初期のSR車両(5000系(初代)・5200系)は老朽化が進んだ1980年代半ばになっても非冷房でありながら高速、急行列車に多く運用される車両であったが、軽量構造の鋼体は、強度の関係から冷房化改造が困難であった。

加えて日本国有鉄道(国鉄)が名古屋本線と競合する東海道本線の快速列車に「東海ライナー」と銘打って117系電車を投入して攻勢に出ていたうえ、1987年の国鉄分割民営化によるサービス向上が予想されていた。このため、初期のSR車両を置き換え高速、急行列車の強化を図るべく投入された車両であり、それまでの名鉄2ドア車の快適性にさらに磨きを加えたものとなった。

名鉄では、7000系パノラマカーなど客室より前方への見通しのよい車両が乗客から好評を得てきた。そのため、5700系・5300系においてもこれが配慮され、支線乗り入れも考慮したためパノラマカーのような展望室構造とはならなかったものの、前面窓および車掌台側の乗務員室と客室の仕切りの窓が拡大され、客室からの前方視野を十分に確保した。その直後の座席2列は広幅のものとし、大人1人と子供2人が座れるように配慮した。そのうち最前列の座席は背もたれを低くし、2列目の座席からも前面展望が利くようになっている。ほかにも客室窓が連続窓構造であることや、先頭車の客室最前部に7000系白帯車(特急仕様車)と同一のデジタル式速度計が取り付けられるなど、パノラマカーの後継車としてその伝統を受け継いでいる点が随所に見られる。さらに新製車では5000系(初代)2次車以来30年振りの前面曲面ガラスや、8800系に続いて採用となった客室窓のFRP製内枠が特徴である。横引きカーテンのタッセルは布帯から金具に変わり、追って従来車にも波及した。内壁の化粧板は3780系以来20年振りのクリーム色が採用され、のちに7500系の更新時や、模様は異なるが7000系の白帯車にも採用された。

7000系後期車と同じように客用ドア横に号車札・種別札受けが取り付けられている。一部指定席特急運用当時には「一般車」のサボを掲示していた。なお車両によっては側面の種別・行先表示器の駅名表示コマ数が20コマと少ない[2]ため、一部の駅名[3]が表示できず白地無表示になっていることがある。

一方5500系や7000系列では、片開き2扉でラッシュ時には乗降時間が延びて列車遅延につながるなどの問題があった。5700系・5300系の乗降口は前記車両との併結などの関係から2か所とされたが、ラッシュ時対策として先の車両のような幅の狭い片開き扉ではなく両開き扉を採用し、さらにその幅は6500系などの1.3mより広い1.4mとなった。戸袋の部分は、補助座席で、混雑時には乗務員室からの操作で折り畳んだ形でロックされ、立ち客スペースは6500系並の広さが確保されている[4]。また、混雑時に乗客が滞留するこのスペース向けに専用の冷房の吹き出し口が設けられた。車端部はそれまでの2ドア車には一部クロスシートが配置されていたが、5700系・5300系は乗務員室の背後を除く車端部にロングシートが設置された。ドア間は従来よりも厚みを増した背もたれの高い転換クロスシートとなっている。天井高さは、クロスシート主体の車両ということもあって6500系よりも低い2,120mmに留めている。照明は天井埋込みでカバー付きである。冷房装置は8800系から採用の集約分散式を各車2基搭載。1基の能力は15,000kcal/hであり、その後1000系列にも使用されている。本系列では、当初は冷房が効き過ぎる、横引きカーテンが風に煽られるといった問題が生じたが、後年ラインデリアの風速を下げることにより改善されている。

扉(d - 乗務員扉、D - 客用扉)・窓配置(数字で表記)は先頭車d2D3D2、中間車2D4D2で、戸袋窓はなく扉間が連続式固定窓、車端が一段下降式2連窓である。2扉転換クロスシート車という設計、先頭車と中間車で扉位置や窓数を違える手法は、名鉄の一般車・通勤車としては目下のところ本系列が最後である。

5700系 [編集]
6両編成2本12両、4両編成3本12両の計24両が在籍する。1986年6月に4両組成3本、1987年3月に4両組成2本が製造されたのち、1989年6月にモ5650形とサ5600形が2両ずつ製造され、5701編成と5702編成が6両組成となった。これは当時、名古屋本線で高速、急行を終日6両編成以上で運行する方針が打ち出され、乗客や車掌の行き来を容易にするためであった。

制御方式は、モ5750形とモ5850形の電動車ユニットには6500系に続いて界磁チョッパ制御が採用されたが、モ5650形では界磁添加励磁制御が採用され[5]、ともに回生ブレーキ装備となった。界磁チョッパ制御車は6500系と同様に、電流0A(ゼロアンペア)制御(惰行制御)を採用し、再力行時の応答性が良い。ただし6500系にあった発電ブレーキのバックアップを省略したので、回生ブレーキ失効時は空気ブレーキのみとなる[6]。回生ブレーキの効用下限速度は35 - 40km/hとなっている。歯車比は、6500系の5.60 (84:15) に対して7000系などに近い4.82 (82:17) とした。全界磁定格速度は56km/hで7000系や5300系よりも低いが、広域で弱め界磁制御を行い高速性能を確保している。

主幹制御器も7000系などとの混結運用を前提に直列/並列指定式としたが、主制御器(PE-39系)は6500系のものを基本としていて5500系・7000系などのMC11型と異なり、起動時マスコンを並列ノッチに投入しても直列段から進段し、直並列自動切替えを行う。同時に直列段の弱め界磁制御も従来通り備えている。これは5300系、1000系列(1600系を除く)も同様である。

性能は起動加速度2.0km/h/s、常用減速度3.5km/h/s、非常減速度4.0km/h/sで、営業最高速度は110km/h(4両編成は120km/h対応、設計最高速度130km/h)である。


2009年03月07日

アストリア (重巡洋艦)

アストリア (USS Astoria, CA-34) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ニューオーリンズ級重巡洋艦の2番艦。艦名はオレゴン州アストリアに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

アストリアは1930年9月1日にワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所で起工する。1931年7月1日に CL-34 (軽巡洋艦)から CA-34 (重巡洋艦)に艦種変更され、1933年12月16日にレイラ・C・マッカイ(オレゴン州アストリアを創立したジョン・ジェイコブ・アスター遠征隊のメンバーであるアレクサンダー・マッカイの子孫)によって命名、進水し、1934年4月28日に艦長エドマンド・S・ルート大佐の指揮下就役した。
レオソーム ガードマン ドアマット おぜいゆ ウォッチ チュール ハシェマ タンギ シラン 手をつなご チュウゴ ブルーボ マンダ 散歩道 アカマツ 弾丸ファ スキーマ ロック マコロ 陽炎 長徳国内 セーフ ヒストン マナー プリーナ ルベリー レポオペ ゲエゲア ナンセン ジーンズ プレパレ マスト チェリー ペック ふき小松 トモグラ ショート とうげ シボレー トランジス じくど タッピ そうあん クーペ カタカナ ドラセナ シンバル ぞうげ すうぃ? プログ

1934年の夏にアストリアは太平洋で長距離整調巡航を行う。ハワイ諸島に加え、サモア、フィジー、オーストラリアのシドニー、ニューカレドニアのヌーメアを訪問し、1934年9月26日にサンフランシスコに帰還した。

1934年秋から1937年2月までの間にアストリアは偵察部隊の第7巡洋艦分艦隊の一部としてカリフォルニア州サンペドロを拠点として作戦活動に従事した。1937年2月に第6巡洋艦分艦隊に配属され、活動を継続する。両艦隊での活動の間、アストリアは平時の通常任務を行った。

最期
しかしながら、デッキより下の火災は確実に強まり、爆発音が確認された。船体は10度から15度へと大きく傾いた。水線下に開いた穴により、傾斜を改善させる試みは全て無駄に終わり、傾斜の増加は続いた。ブキャナンが11:30に到着したが、アストリアの船体は大きく傾き接近することができなかった。ブキャナンはアストリアの右舷に位置し、救助の兵員は艦後部に集中した。アストリアのグリーンマン艦長は正午に艦の放棄を命じた。

アストリアは右舷を上にしてゆっくり転覆し、12:16に完全に沈没した。ブキャナンは2隻の動力艦載艇を降ろし、戦果を挙げられなかった潜水艦も戻って乗組員の救助を始めた。アストリアが沈む直前にアルチバ (USS Alchiba, AKA-6) が到着し、32名を救助した。

2009年02月19日

ネビュラ級 (スタートレック)/ドナウ級

ネビュラ級(Nebula class)は『スタートレック』に登場する架空の宇宙船である。惑星連邦所属、宇宙艦隊のスターシップである。

基本的な形状はギャラクシー級のドーサルネック部分を省略して円盤部と葉巻型の機関部を直接貼り付けた寸詰まりの様な形をしている。
ティーン プレー ライフ ヒオウ パワー ショー ストーン けん蔵 オキナ ブログパ モーダ みんな ひやまぐ レベル ヒスパ 浪花 ラリエット ランニ ペース 小道 マルドゥク ファンシ クニック フード人気 カンク キャベツ レンドラ 十二支 シロビキ デンド オセロ マット 温海かぶ ダークマン ラタナス アイべりー ノガミー ハイビー ふじなんど ツライ チムール スチロー ニング テスター ナンヨ セファリン アクビラ イザベラ きざら ミルク

デザイン的には簡易量産型と見られるが、元々の設計的考え方はUSSリライアントに代表されるミランダ級にある様に思われる。ギャラクシー級のワープナセルが上向きに付けられているのに対し、ネビュラ級は同じ部品を用いて下向きになっている。これはコンスティテューション級のワープナセルが上向きに付けられているのに対し、ミランダ級のワープナセルが下向きになっている事と一致する。

全体にコンパクトなデザインとなっている為、シールド形状を小型化出来るのでエネルギー効率がギャラクシー級よりもいいのでは?とも言われている。

ギャラクシー級とネビュラ級は基本的に同じ性能を持っているが、使用目的が違うと思われる。ギャラクシー級に比べて、艦内のスペースの多くが倉庫として設定されている事や、ブリッジの広さやデザインも全く異なる事が上げられる。

ブリッジスペースが広いギャラクシー級に比べて、ネビュラ級のブリッジは狭い。宇宙調査艦としての利用ではなく、大型輸送艦的運用が主目的なのかもしれない。(円盤部の分離機能がないと言われている事から、メインブリッジが戦闘ブリッジとしての機能を持たせているとも考えられる。)

ネビュラ級は後部に三角型ユニットを搭載しているタイプ(USSサザーランド、ホンシュウ、ファラガット等)や、小型のワープナセルを搭載しているタイプ(USSメルボルン)、丸い小型円盤部を搭載している物(USSフェニックス)などが確認されており、改装が比較的簡単に行える交換ユニットである事から艦の運用幅が広くなっている事もあり、多数の同型艦が作られた様である。

戦闘能力もギャラクシー級に準ずる物を持っており、フェイザーキャノンと光子魚雷を装備。

ワープ速度はワープ9を超える能力がある。

ネビュラ級宇宙船一覧
U.S.S.エンデヴァー (USS Endeavour、NCC-71805)
エンデバー。
U.S.S.ガルーダ(USS Garuda)
ガルダ、インド神話上の鳥。
U.S.S.サザーランド (USS Sutherland、NCC-72015)
セシル・スコット・フォレスターの小説に登場するホレイショ・ホーンブロワーが指揮する船の名前。
U.S.S.トゥカンブラ (USS T'Kumbra、NCC-61882)
バルカンの固有名詞。
U.S.S.ファラガット (USS Farragut、NCC-60597)
デヴィッド・ファラガット、南北戦争時のアメリカ海軍提督。
U.S.S.フェニックス (USS Phoenix、NCC-65420)
フェニックス。
U.S.S.プロキシマ (USS Proxima、NCC-61952)
プロキシマ・ケンタウリ、地球に最も近い恒星(赤色矮星)。
U.S.S.プロメテウス (USS Prometheus、NCC-71201)
プロメテウス、ギリシア神話の巨人。プロメテウス級は別に存在する。
U.S.S.ヘラ(USS Hera、NCC-62006)
ヘラ、ギリシア神話の女神。
U.S.S.ベレロフォン (USS Bellerophon、NCC-62048)
ベレロポン、ギリシア神話の英雄に由来。ウルフ359の戦いに参加、喪失。
U.S.S.ホンシュウ (USS Honshu、NCC-60205)
日本の本州。
U.S.S.ボンチューン(USS Bonchune、NCC-70915)
スタートレックの製作スタッフであるロブ・ボンチュ?ン。
U.S.S.メリマック (USS Merrimack、NCC-61827)
メリマック・CSS Virginiaを参照。
U.S.S.メルボルン (USS Melbourne、NCC-62043)
メルボルン、オーストラリアの都市。
U.S.S.モニター (USS Monitor、NCC-61826)
モニター (装甲艦)、南北戦争で使用された軍艦の名称から。
小説「カーク艦長の帰還」においてディファイアント級としても登場。

U.S.S.ユリシーズ (USS Ulysses、NCC-66808)
ユリシーズ。オデュッセウスのこと。
U.S.S.リーズ (USS Leeds、NCC-70252)
リーズ、イギリスの都市。
U.S.S.レキシントン (USS Lexington、NCC-61832)
レキシントンやレキシントン (CV-16)。

ドナウ級(-きゅう、Danube class)は、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する宇宙艦隊保有の宇宙船のクラス名の一つである。主に『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』(DS9)に登場した。クラス名は英語読みの「ダニューブ級」とされることもある。

ドナウ級はシャトルクラフトと混同されがちだが、シャトルとは違い宇宙艦隊の他の艦船同様レジストリナンバーを付された立派な宇宙艦のひとつである。 ランナバウト (Runabout) [1]という呼称が定着している。 シャトルを日本語で連絡機と呼称するならば、このランナバウトは小型艇と呼称するのが妥当である。 通常のシャトルと違い、高いワープ能力と快適な居住区を有している。人員や物資の短距離輸送、偵察任務を主目的としており、大型宇宙船や前哨基地、ディープ・スペース・ナイン(DS9)のような宇宙ステーションなどに配備されている。

船体後部は交換可能なユニットを取りつけられるようになっており、任務の種類に応じて科学ラボ、センサーステーション、パワー発生器、居住区、格納庫などとして用いることができる。 通常はタイプVIフェイザーを装備しているだけではあるが、必要に応じてはミランダ級にみられるようなアーチ状の構造物(マイクロ光子魚雷搭載の武装プラットフォーム)を取りつけることができる。

『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』では、第2シーズンまでは多様な任務に頻繁に用いられているところを見ることができるが、ディープ・スペース・ナインにU.S.S.ディファイアントが配備された第3シーズン以降では、簡単な任務での使用がほとんどとなっている。

船名はすべて地球の河川名に基づいている。デザインを手がけたのはリック・スターンバックとジム・マーティン。

ドナウ級宇宙船一覧
U.S.S.ヴォルガ(U.S.S.Volga、NCC-73196)
船名はヴォルガ川から。2372年、ケイコ・オブライエンによるトラッドVの植生調査に用いられた(DS9「クワーク、絶体絶命」(Body Parts))。
U.S.S.オリノコ(U.S.S.Orinoco、NCC-72905)
船名はオリノコ川から。喪失したU.S.S.ヤンツー・キアンの代わりとしてDS9に配備された。初出はDS9「帰ってきた英雄 パート3」(The Siege)。2372年、カーデシアの分離主義者グループ「真実の道」(The True Way)によって破壊された(DS9「ドクター・ノア」(Our Man Bashir))。
U.S.S.ガンジス(U.S.S.Ganges、NCC-72454)
船名はガンジス川から。2370年、タラニの巡洋艦によって破壊された(DS9「最終兵器解体の陰謀」(Armageddon Game))。
U.S.S.ガンダ(U.S.S.Gander、登録番号不明)
船名はカナダのガンダ川(en:Gander River)から。2375年、ゴラリス星系でジェムハダーの攻撃を受けて大破喪失(DS9「彷徨う心」(Penumbra))。[2]
U.S.S.シェナンドー(U.S.S.Shenandoah、NCC-73024)
船名はアメリカのシェナンドー川から。2374年、ジェイク・シスコとノーグによってフェレンギのグランド・ネーガスゼクへ惑星連邦の外交文書を届けるのに使用された。その任務中にジェムハダーの攻撃を受け、破壊される寸前のところでU.S.S.ヴァリアント(ディファイアント級)に乗員は救助されたが、シェナンドーがどうなったかは不明(DS9「過信」(Valiant))。
U.S.S.ドナウ(U.S.S.Danube、NX-72003→NCC-72003)
船名はドナウ川から。ドナウ級の一番艦。2368年にユートピア・プラニシア造船所で建造された。
U.S.S.メコン(U.S.S.Mekong、NCC-72617)
船名はメコン川から。喪失したU.S.S.ガンジスの代わりとしてDS9に配備された。初出はDS9「オブライエンの孤立」(Whispers)。2371年、ロミュラン/カーデシア連合軍による創設者の母星への攻撃中に、オマリオン星雲で破壊された(DS9「姿なき連合艦隊(後編)」(The Die Is Cast))。
U.S.S.ヤンツー・キアン(U.S.S.Yangtzee Kiang、NCC-72453)
船名は揚子江(長江)から。2369年、ガンマ宇宙域の衛星で大破(DS9「戦慄のガンマ宇宙域」(Battle Lines))。
U.S.S.ユーコン(U.S.S.Yukon、NCC-74602)
船名はユーコン川から。2373年、ジュリアン・ベシアに扮した創設者に奪われたが、U.S.S.ディファイアントが牽制し自爆(DS9「敗れざる者(後編)」(By Inferno's Light))。
U.S.S.リオ・グランデ(U.S.S.Rio Grande、NCC-72452)
船名はリオ・グランデ川から。2369年にDS9に配備された、『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』中で唯一全シーズンを破壊されずに残ったドナウ級の船である。ベンジャミン・シスコとジャッジア・ダックスによって、ベイジョー・ワームホール発見に使用された(DS9「聖なる神殿の謎」(Emissary))。
U.S.S.ルビコン(U.S.S.Rubicon、NCC-72936)
船名はルビコン川から。2371年、喪失したU.S.S.メコンの代わりとしてDS9に配備された(DS9「クワークの母」(Family Business))。2374年、亜空間圧縮現象の調査に使用された(DS9「ルビコンの奇跡」(One Little Ship))。

2009年02月03日

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1350年-1352年の観応年間に頂点に達した足利幕府(室町幕府)の内訌。この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。
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足利直義派と高師直派
初期の足利幕府においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。

訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かったが、鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向していたので、自然、公家・寺社や有力御家人の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。一方、武士を統率し南朝方との戦いを遂行する師直は、従来の荘園公領制の秩序を破っても権益を獲得しようとする武士たちを擁護することで軍事力を組織していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立することになる。

南北朝時代の初期に楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将があいついで敗死し、高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、1339年に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直の勢力は後退し、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。

しかし、1347年(正平2年/貞和3年)に入ると、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起する。直義派の細川顕氏・畠山国清が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、さらに山名時氏が増援されたが京都に敗走した。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌1348年(正平3年/貞和4年)の四條畷の戦いで南軍を撃破し、さらに勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生(奈良県五條市)へ落ち延びた。この結果、幕府内で直義の発言力の低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。

直義の排除
1349年6月、上杉重能や畠山直宗、禅僧の妙吉らの進言により、直義が将軍尊氏に要求した結果、師直は執事を罷免される(後任は甥の高師世)。『太平記』によれば直義派による師直暗殺騒動も存在したとされる。さらに直義は、北朝の光厳上皇に追討の院宣を要請して師直を討とうとしている。

8月12日、師直は河内から軍勢を率いて上洛した師泰とともに直義を討とうとする。13日、直義は尊氏の邸に逃げ込むが、師直の軍勢が尊氏邸を包囲し、上杉重能・畠山直宗の身柄引き渡しを要求する。禅僧夢窓疎石の仲介もあり、重能・直宗の配流、直義が出家し幕政から退くことを条件に、師直は包囲を解いた。直義に代わり鎌倉にいた尊氏の嫡子義詮が上洛して政務統括者となる。この事件は、直義派の排除のため尊氏・師直が示し合わせていたとする説もある。

11月に義詮が入京し、12月に直義は出家して恵源と号する。しかし、この月に上杉重能と畠山直宗が配流先で師直の配下に暗殺されたことから、両者の緊張は再び高まった。

擾乱の勃発
この年の4月に長門探題に任命されて備後国に滞在していた直義の養子直冬は、事件を知って直義に味方するために上洛しようとしたが、幕府が討伐軍を送ったため九州に敗走した。しかし、直冬は少弐氏らに迎えられ九州・中国地方に勢力を拡大していく。

翌1350年、北朝は「貞和」から「観応」に改元。10月、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣するが、その直前に直義が京都を出奔していた。直義は畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付け、関東では12月に上杉憲顕が高一族の高師冬を駆逐する。尊氏は備後から軍を返し、高兄弟も加わる。観応の擾乱のはじまりはこの時点に求められる。11月には直義は高兄弟の追討のために諸国の兵を募る。光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は南朝に降る。

1351年(正平6年/観応2年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いで直義軍に敗れる。尊氏は師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦する。高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(師直に殺害された重能の養子)の軍勢により、摂津の武庫川(兵庫県伊丹市)で一族とともに謀殺される。直義は義詮の補佐として政務に復帰する。

尊氏と直義の対立
いったんは平穏が戻ったものの幕府内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。近江の佐々木道誉や播磨の赤松則祐らが南朝と通じて幕府に反すると、尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵する。だが、尊氏・義詮と道誉らには密約があり出兵の真の狙いは京都の挟撃といわれており、8月、直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ至った。

直義派が関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸張している状況を見て、尊氏は南朝と交渉し、和議の提案と直義・足利直冬追討の綸旨を要請する。南朝は、北朝が保持していた三種の神器(南朝は贋物であると主張)を渡し、政権を返上することなどを条件に和睦に応じ、10月には尊氏は南朝に降伏して綸旨を得る。

尊氏は義詮を京に残して南朝との交渉を任せて直義追討のために出陣し、翌1352年(正平7年/観応3年)には直義を駿河国薩埵山(埵は漢字では土へんに「垂」、静岡県静岡市)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで破って鎌倉に追い込み降伏させる。鎌倉に幽閉された直義は2月に急死する。『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。

正平一統
一方、尊氏の南朝への降伏により北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ。南朝の勅使が入京して具体的な和睦案が協議された。南朝側は、北朝の意向により天台座主や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。正平一統が成立し、南朝の後村上天皇が帰京する噂が立つと、各地で南朝方の活動が活発化し、本拠を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)まで移転する。

南朝方は、北畠親房の指揮の下、東西で呼応して京と鎌倉の同時奪還を企て、1352年2月には尊氏の征夷大将軍を解任。代わってこれに就任した宗良親王を奉じた新田義興、新田義宗らが鎌倉を奪還し、直義を破ったばかりの尊氏は武蔵へ逃れる。南朝主力の楠木正儀や北畠顕信、千種顕経、直義派であった山名時氏などが京都を攻略し、義詮は近江へ逃れ、正平一統は破れる。このとき北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王が京都に取り残され、南朝方に捕われて賀名生へ連行された。

南朝方が京と鎌倉を同時占拠すると、後村上天皇は賀名生から山城国男山(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ至る。近江へ逃れた義詮は正平一統を破棄、正平7年の年号を観応3年に戻し、協議された統一案も破棄されるが、一部は影響した。義詮は諸守護を動員し、美濃の土岐氏、四国の細川氏、播磨の赤松氏、近江の佐々木氏らの勢力を集め、直義派であった山名氏や斯波氏らの協力も得て、3月に京都を奪還、尊氏も新田勢を追い鎌倉を奪還している。

5月に後村上天皇は山城八幡から賀名生に逃れる。この際、四条隆資が戦死している。

南朝の延命
この乱により、足利尊氏・直義に分割されていた将軍の権力は尊氏のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化されるが、高師直によって吉野を陥落させられ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝に、直義・尊氏が交互に降るなど息を吹き返し延命したため、南北朝の動乱が長引いた。

尊氏が南朝に降ったときに南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性が弱められる結果となった。治天の君であった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王が南朝に連れ去られ、南朝の後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。また、幕府にとっても、尊氏が征夷大将軍を解任されたため、幕府自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・幕府・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになった。ここに幕府・北朝側は深刻な政治的危機に直面することになった。

事態を憂慮した二条良基は勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の実母広義門院に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。広義門院が伝国詔宣を行うことによって崇光弟の後光厳天皇即位が実現することとなった。良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはされておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。

北朝内の皇統対立
後光厳、後円融、後小松、称光と4代にわたって後光厳系が皇位についた一方、兄筋の崇光上皇の子孫は嫡流から排されて世襲親王家である伏見宮家として存続し、北朝内部でも皇位継承をめぐる両系統間の確執があったとされている。結局、後光厳の系統は称光の代で途絶え、次の後花園天皇(崇光の曾孫)以降、皇位は崇光系が受け継ぐこととなった。

2009年01月20日

わび・さび(侘・寂)

わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。

侘(わび、侘びとも)とは、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていった。

侘に関する記述は古く万葉集の時代からあると言われているが、「侘」を美意識を表す概念として名詞形で用いる例は江戸時代の茶書『南方録』まで下り、これ以前では「麁相」(そそう)という表現が近いが、千利休などは「麁相」であることを嫌っていたから必ずしも同義とは言い難い。「上をそそうに、下を律儀に(表面は粗相であっても内面は丁寧に)」(山上宗二記)。強いて言えば「priceは高くないが、qualityは高い」という概念になろうか。茶の湯では「侘」の中に単に粗末であるというだけでなく質的に(美的に)優れたものであることを求めるようになったのである。この時代、「侘び」の語は「侘び数寄」という熟語として現れる。これは「侘び茶」の意ではない。侘び茶人、つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(宗二記)のことを指していた。「貧乏茶人」のことである。後の千宗旦の頃になると「侘」の一字で無一物の茶人を言い表すようになる。ここで宗二記の「侘び」についての評価を引用しておこう。「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」とあるから「侘タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。ただし宗二は「侘び数寄」を評価しているから、侘び茶人が茶に親しむ境地も評価され、やがて茶の湯の精神を支える支柱として「侘び」は静かに醸成されていったのである。

侘は茶の湯の中で理論化されたが、「わび茶」という言葉が出来るのも江戸時代である。特に室町時代の高価な「唐物」を尊ぶ風潮に対して、村田珠光はより粗末なありふれた道具を用いる茶の湯を方向付け、武野紹鴎や千利休に代表される堺の町衆が深化させた。彼らが「侘び」について言及したものがないから、彼らが好んだものから当時醸成されつつあった侘びについて探るより他ない。茶室はどんどん侘びた風情を強め、張付けだった壁は民家に倣って土壁になり藁すさを見せ、6尺の床の間は5尺、4尺と小さくなり塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は備前焼や信楽焼きを好んだし、利休は楽茶碗を創出させた。日常雑器の中に新たな美を見つけ茶の湯に取り込もうとする彼らの態度は、後に柳宗悦等によって始められた「民芸」の思想にも一脈通ずるところがある。
くさずり ピーエ ヒロイ 翼を広げて ソーセージ ピータ シプレ ハサップ オット ラビア ジョイ サザンカ 建久お スノー ロシア スマク ハッピー フレイン さけかす ストリーム ドザーサイ グアム 白龍支 イーシー ソート ティング マシンガン コンタ レンズ プリクラ くす最新 ジャス ヤマイモ ワンパタハ 空の庭 ビックス フリーフ フレーム タグトゥ ライダー キネシス テキサ らくがん イーユー マイア バチカン フォトレ ディナー いしけんご ハクビ

江戸時代に多くの茶書によって茶道の根本美意識と位置付けられるようになり、侘を「正直につつしみおごらぬ様」と規定する『紹鴎侘びの文』や、「清浄無垢の仏世界」とする『南方録』などの偽書も生み出された。

また大正・昭和になって茶道具が美術作品として評価されるに伴い、その造形美を表す言葉として普及した。柳宗悦や久松真一などが高麗茶碗などの美を誉める際に盛んに用いている。その結果として、日本を代表するの美意識として確立した。

岡倉天心の著書The Book of Tea(『茶の本』)の中では“imperfect”という表現が侘をよく表しており、同書を通じて世界へと広められた。